武田家滅亡の「悲劇の城」勝頼公が自ら火を放ち落ちた「新府城跡」

カルチャー

国指定史跡 新府城跡

「悲劇の城」と呼ばれるその城跡は、武田家滅亡の歴史を伝える城郭跡である。

信玄の息子である「武田勝頼」が築城し、未完のまま織田勢の侵攻を前にわずか68日で勝頼自らが火を放った悲劇の城。

今年は「武田信玄 生誕500年」の記念の年に、「くるら」でもしっかりとご紹介させて頂たいと思う。

場所は山梨県韮崎市中田町。

勝頼が本拠を甲府市の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から、韮崎市中田町移転し建てられた。

まず目に入ってくるのは、この急勾配な249段の石段。

「くるら」として旅をするようになってから、「石段」や「坂道」には慣れてきてはいるが、この石段もなかなかである。

まだ中間地点。勝頼公を祀る藤武神社の鳥居が出てくる。

まだまだ、まだまだ。

まずはしっかりとお礼と挨拶を。

「乙女坂」と名づけられたつづら折りの楽な方の道が出てきたが、どんな時も常に困難な方を選ぶという自分の信条のもと、引き続き階段を選択。

先が見えないくらいがちょうど良いと、自分に言い聞かす。

光が差し込み、絶妙の風景が撮れた。登りきるまであと少し。

上からのアングル。高所恐怖症である自分には、結構な恐さである。

階段を登り切ったところが、新府城跡の「本丸跡」である。勝頼公を祀る藤武神社が出てくる。

改めて新府城の説明をさせていただこう。

新府城は天正9年(1581年)2月に築城着手され、完成したのは同年12月であった。

それまで甲府市の躑躅ヶ崎館の館城にあった勝頼は四囲の情勢から考えてこの天険を利用する意外に方策がなかったからと言われている。

しかし時すでに遅く、天正10年3月3日に織田軍の侵攻を前に自ら城を焼いて東方、郡内領岩殿城を指して落ちた「悲劇の城」である。

本丸跡はとにかく広い。

周りには、ソメイヨシノの桜の木が30本近くあり、桜の名所のひとつになっている。

「石祠(せきし)・武田勝頼公霊社」

勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を国主の恩徳を追慕し新府城守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼公の心霊を納め之を祀り勝頼神社と称し毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきたと言われている。

本丸跡を歩きながら、しっかりとこの場所を体全体で感じようと一歩一歩丁寧に歩木、また途中で立ち止まったりとしていると、偶然にも急に風が強く吹いてきた。

不思議な感覚ではあるが、何か大きな存在に見られているというか、見守られているという感覚だ。

決して怖い話をしようとしていいるわけではない。

この場所で起きた悲劇を自分なりにしっかりと想像し、血の繋がりとか関係なく、先人達が繋いできてくれた命に感謝をし、思いを馳せることが「今」この場所でを生きている僕た地にとっては大切なのかなと心から感じた。

この場所からも見える「富士山」は、きっと戦国時代も変わらず同じ見え方をしていたのかなぁと感じながら、新府城の記事を締めたいと思う。

新府城跡

〒407-0262 山梨県韮崎市中田町中條上野字城山

URL : https://www.nirasaki-kankou.jp/kankou_spot/jinjya_bukkaku_rekishi/meisho_kyuseki/4251.html

Daisuke Akiyama

山梨県南アルプス市出身。メンズファッションブランドのマーチャンダイザー及びEC事業部マネージャーを経て2021年独立。生まれ育った山梨を一から見つめ直すため...

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