武田家最後の武将”武田勝頼公”の菩薩寺「景徳院」夫人、息子と眠る地に思いを馳せる
山梨県を語る上では、武田氏なくては語れない。
くるらを始めてまだ2ヶ月ちょっとしか経っていないが、何度も武田氏の名前やゆかりの地はこの短期間にも何度も出てきた。
くるらの旅を初めて、各地へ行ってもやはり「武田氏」の存在は強く改めて山梨県の歴史は武田氏とともにあると感じます。
今回は、その武田氏最後の武将「武田勝頼公」の菩薩時、「景徳院 」のご紹介をいたします。
景徳院
天正10年(1582)3月11日、武田勝頼公一族は、織田、徳川にの連合軍と激戦の末、武岳の歴史を閉じました。
同年7月、徳川家康公が入国の際、家臣尾畑勘兵衛に命じて建立されたのが、このお寺です。
天正16年(1588)の建立当時は、境内に諸堂を備えていましたが、この山門のみが幾多の火災を免れ、当時の面影を残しています。
境内。
この日は、雨が降っていました。個人的には雨は好きではないのですが、この雨模様の寺院の景観は非常に良いなと感じました。
手入れが行き届いており、非常に美しいです。
夕暮れの雨模様。
勝頼公、北条夫人、信勝公の生害石。
※生害石とは・・・
自ら命を絶つための場所として選んだ石のことです。
勝頼公と北条夫人の生害石は寄り添うように隣同士に置いてあります。
・・・
言葉にできない思いが込み上げてきます。
甲将殿の裏には勝頼公をはじめ将士のお墓がございます。
※中央が勝頼公、右が北条夫人、左が信勝です。
北条夫人辞世
黒髪の 乱れたる世ぞ はてしなき
思ひに消ゆる 露の玉の緒
「黒髪が乱れるかのように果てしなく世は乱れ、あなたを思う私の命も露のしずくのようにはかなく消えようとしています」
当時19歳と言う若さ・・・
今回の景徳院では、言葉にできない感情がどんどん出てきてしまいます。
勝頼公、北条夫人、信勝公の没頭地蔵尊
勝頼親子の遺骸は、陣を張った高台の中腹に埋葬し、後に地元の人々が首のない三体の地蔵尊を安置しました。
これが「没頭地蔵」と呼ばれ、祀られています。
ありきたりの言葉ですが、武田家があっての今の山梨がある。
色んな運命の歯車があれど、そのことには変わりはないはず。
感謝の気持ちで手を合わせて、しっかりと「今」を生きていきたいと思います。
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景徳院
〒409-1202 山梨県甲州市大和町田野389
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