笛吹川の名前の由来となった「笛吹権三郎」その悲しき物語に迫る
笛吹川の名前の由来となった「笛吹権三郎」。
中学時代の英語の授業の記憶の中で、
「Fuefuki Gonzaburo」
と言う、「笛吹権三郎」の話を題材にした授業がありました。
話の内容や、記憶は全くないのですが・・・
昨日の記事で笛吹市石和町の「さくら温泉どおり」について書きましたが、道中歩いている時に、「笛吹権三郎之象」と言う案内を見つけ、中学時代の記憶が蘇ってきました。
これは絶対に行くべきだと思いその足で言ってきました。
※昨日の記事は、こちらをご覧ください。
本日は、「笛吹権三郎」と権三郎にまつわる悲しき物語をご紹介いたします。
今から600年ほど昔、芹沢の里(現在の三富村上釜口)に権三郎という若者が住んでいました。
彼は、鎌倉幕府に反抗して追放された日野資朝一派の藤原道義の嫡男でしたが、甲斐に逃れたと聞く父を、母と共に尋ね歩いてようやくこの土地に辿り着き、仮住まいをしていました。
しかし、すでに父は亡く、村人とともに暮らしていました。
彼は孝子の誉れ高く、また、笛の名手としても知られており、その笛の音色はいつも里人の心を酔わせていました。
人々は笛の上手なこの少年を「笛吹権三郎」と呼んでいました。
ある年の7月。長雨つづきのために近くを流れる子酉川が氾濫し、権三郎母子が住む丸木小屋を一瞬の間に呑み込んでしまいました。
若い権三郎は必死で流木につかまりなんとか助かりましたが、母親の姿を見つけることはできませんでした。
悲しみにうちひしがれながらも、権三郎は日夜母を探し求めてさまよい歩きました。
彼が吹く笛の音は里人の涙を誘い同情をそそいました。
しかし、その努力も報われることなく、ついに疲労困憊の極みに達した権三郎は、自らも川の深みにはまってしまったのであります。
変わり果てた権三郎の遺体は、手にしっかりと笛を握ったまま、はるか下流の小松の河岸で発見され同情を寄せた村人の手によって土地の名刹長慶寺に葬られました。
権三郎が逝ってから間もなく、夜になると川の流れの中から美しい笛の音が聞こえてくるようになり、里人たちは、いつからかこの流れを笛吹川と呼ぶようになり、今も芹沢の里では笛吹不動尊権三郎として尊崇しています。
いかがでしたでしょうか。
「笛吹権三郎」は日本三大急流の富士川水系の一級河川「笛吹川」の名前の由来になっているのです。
この物語を知った上で、笛吹川やその地を旅すると、感じ方も全く変わってきますよね。
笛吹川をに行かれる際は、是非この「笛吹権三郎」の話を思い出していただければと思います。
笛吹権三郎之像
〒406-0024 山梨県笛吹市石和町川中島
※権三郎通り沿い
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