悲劇の最期を迎えた雛鶴姫が祀られている「雛鶴神社」歴史を伝えていく大切さを学びます
雛鶴姫
悲劇の最後を遂げた護良親王の妃。
雛鶴姫の人生を知って、この神社にくるというのは非常に心が苦しく足が重くなりましたが、だからこそ行くべきで、そしてご紹介すべき山梨の神社だと思いました。
本日は、その悲劇の最後を迎えた雛鶴姫が祀られている、山梨県上野原市の「雛鶴神社」をご紹介いたします。
建武2年(1335)鎌倉将軍府にあった足利直義によって、鎌倉二階堂ガ谷の東光寺の牢に幽閉されていた護良親王は、直義に命じられた淵辺義博によって殺害されました。
無念さを隠しきれない親王は刺客となった淵辺義博の顔を死後もにらみつけていたため、その形相に恐れをなした義博は、その首級を周囲の竹薮に捨て逃走したと言われています。
妃である雛鶴姫は、親王の首級を竹薮から探し出すと、数人の従者と共にその首級を携え、鎌倉を発ち現在の山梨県上野原市秋山まできました。
雛鶴姫はその頃、護良親王の子供を宿しており臨月でありました。
秋山川上流部は当時人家も少なく、宿を乞う家も見当たらないまま雛鶴姫は産気づいてしまいます。
従者たちはやむなく、付近の木の葉を集めてしとねとし、そこを産所として皇子を出産しましたが、雛鶴姫と生まれたばかりの皇子は他界してしまいました。
悲しんだ従者たちは、雛鶴姫と皇子の亡骸を手厚く葬り、護良親王の神霊とともにこの地に祀り、永久に冥福を祈るためにここに帰農しました。
大塔宮護良親王、葛城綴連王、雛鶴姫の3名を祀った小さな祠のあった場所に、1989年(平成元年)10月22日、雛鶴神社が建立されました。
雛鶴姫の供をし殉死した藤原宗忠、馬場小太郎二人の従臣のために植えられたという樹齢300余年の二本の老松。
この物語を知った上で、この「雛鶴神社」を巡るのは、正直心が重かったです。
歴史上とはいえ、過去にあった出来事。
過去、現在、未来。
「伝える」ということの大切さを改めて学んだ「雛鶴神社」でございました。
雛鶴神社
〒409-0201 山梨県上野原市秋山無生野12779
URL : https://www.yamanashi-kankou.jp/kankou/spot/p1_8010.html
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